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■昭和ノスタルジー マツダクーペ編1

2007年07月20日

さて、前回は思わず地震を機に、大自然の威力を考えさせられました。
考えてみれば人間の存在なんてちっぽけなものですね。

社会の海原を、右も左も分からず、ちょろちょろしているようなもので、
平成も早や二十年近く、昭和も遠くなりつつあります。
印象に残る、記憶の断片も曖昧(あいまい)になりそうで、
少しばかり私の記憶の糸を辿(たど)って、
お話させて頂きたく思います。

それは私が工業高校を卒業して、マツダオートに就職して一年目の物語。
昭和38年というと、読者諸兄はまだこの世に誕生していない方も
多いのではないのでしょうか。
とはいってもその頃は、マツダクーペ、マツダキャロルしかない時代で、
日本が高度成長を謳(うた)い、今日の繁栄を築くべく
【スタート】した時代です。

マツダの主力はオート三輪という、ハンドルも自転車のようなハンドルで、
タイヤが三本という、誠に時代を象徴する車でしたが、
急ハンドルを切ると、よく車が横転したものです。
その頃の車は、本当に小さくて軽く、大人が3人もいれば
起こせるようなものでした。

私が子供の頃の道路事情は、今のような車社会を想定したものでなく、
でこぼこ道の砂埃(すなぼこり)が舞う曲がりくねった細い道です。

やっと道路事情も車社会に適応し、皆が自家用車を持てる時代になり、
その中で登場した乗用車がマツダクーペだったのですが、
それは、小さい、小さい、本当に可愛い車でした。

現在では、殆んどというか、全く見かけなくなりましたが、
どこかで展示車として、保存されているだろうと思います。
二人乗りでオートマチック、時を経(へ)、現代社会で見たとき、
余りの小ささ、シンプルさにビックリしたものです。

その頃の車屋(ディーラー)の新入社員は、何故か皆、修理課への
希望が多く、セールスという言葉がどこか胡散臭い時代であり、
男なら修理屋と、新入社員の私達は単純にそう思ったものです。

私は部品課に配属され、修理工場を窓越しに過ごし、
暇があれば工場へ行き、皆と世間話しながら、
先輩達の修理の手元を見ては、憧れにも似た
なんとも言えない羨ましさを感じたものです。

そしてある夜、件(くだん)のマツダクーペが入庫し、
ブレーキシューの交換ということになり、
先輩の修理工が、私に「やってみるか?」と言ったのです。
私はよく修理を見てはいましたが、実際に触ることは初めてです。
私は喜んで返事をすると急いで倉庫から
ブレーキシューを持ち出し、ブレーキの金具に貼り付けました。
その頃のブレーキシューは、何とアッセンブリーのブレーキと、
シューを台に貼り付けるものとがあったのです。

勿論先輩に聞きながら、私はボンドでシューを貼り付け、
作業を進めます。
晩秋の北陸の地、工場にはストーブが幾つも置いてあります。
私はボンドで張ったブレーキシューを、ストーブで乾かし、
ドラムに組み込みました。
初心者の私が出来るのですから、簡単な構造だったのでしょう。

夜も程よく深まり、その頃の北陸の地は、正に雪国宜しく、
寒気は冷え冷えと、夜の暮れも早いものでした。
ブレーキを換えた顧客は、先輩修理工の人と談笑しています。

世はまだ、ほのぼのと、人間と人間の信頼感があった時代です。
時刻でいえば、7時過ぎでもあったでしょうか。コンビ二も何もない時代。
夜は夜の暗さが、しっかりと責任を果たし、その日の
仕事の終わりを告げます。

「さて、それでは帰るか」

そして工場内は帰り支度を始め、ストーブも消され、明かりも
消えようかと、まさにその瞬間、「先程のお客様から電話....
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伏見谷 徳磨

つづく

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