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■夏はちょっと怖い お話

2007年08月24日

人間はある日突然、唐突に、何の脈略もなく、
急激に何かを思い出すらしい。
お盆も過ぎ、残暑もまだまだの中、
それはテレビを見ていて突然だった。

今から2年ほど前、私は富山のある方を尋ねていた。
私のずっと先輩で既にお年は80歳を超えている。
まあ私も60歳だから、お互い老齢?といえるだろうか。
交流は35年間に及ぶ。

仕事を通じての知り合いだから、色々話題が共通で、
損得もあり、親近感もあり、まあ大先輩だから私も気を使い、
それでも気も合ったし、相手の方はお金持ちでもあった。

喫茶店でお茶を飲むのが趣味だった私は、
よくこの方と無駄?で有意義な時間を過ごした。
大阪へ出てすっかりご無沙汰していたのだが、
1度訪ね、その後何回か会っている。

不思議なもので、昔の旧知は会えば懐かしく
一気に空白の時間を埋めあえる。
そして2年前の夏、あれは丁度お盆の最中(さなか)だった。

「今思い出しても不思議なんだよ」「何がですか」
「いや、本当なのかどうか」そして奥さんが言葉を継いだ。
「この人も年をいっているから、もうろくしたのよ」

奥さんは昔から美人で、80歳にして色香の微笑が
ふっくらと面影が残る。
「でもお前も一緒に行っただろう」「だからぼけて夢でも見たのよ」

そして老人は少し遠くを見る眼差(まなざ)しを宙に泳がした。
老人といっているが、不思議なことにこの方も奥さんも、
少しも昔と変わらない。

受話器を持っていたんだよ。確かに弟だった。
まあ、少しボーっとしていたといえばそうだ。
「兄さん、今度のお盆の15日に会おうよ。
夜7時に店で待っているから」

弟はもう遠い昔、戦争のとき、学徒動員で戦死しているんだ。
わしはそれを知っているのに、何もその時は尋(たず)ねず、
疑問にも思わなかった。

「あなた、何をいつまで受話器を持っているの」
家内の声でふと我に返ったのだ。少し間(ま)が悪かったよ。

「いや、あのな、お前。今弟から電話があったのだよ」
わしは少ししどろもどろだった。バツが悪そうに受話器を置くと、
そう言わざるを得なかった。

「弟さんって?」「一番下の和夫だ」
「和夫さん?もう戦争で死んでるんじゃなかった」
「そうだ、死んでるはずなのに電話があったのだ」
「何を言っているの」家内は少しまじめな顔でわしを見つめたもんだ。
わしがぼけたのかとでも思ったのだろう。

五人兄弟の、わしは三男。和夫は末っ子の五男だった。
みな仲良くしていたが、わしは特に末っ子の和夫を可愛がっていた。
みな戦争に行き、わしと長男、四男が生き残り、
二男と和夫は戦死したのだ。

遠い筈(はず)の戦後の話が、私の身近におきてびっくりした。

老人(今となってはそう呼ばせていただく)は四国の生まれで、
戦争が終わり帰国してから学校の教師になり、富山へ来たという。
奥さんも先生をしていて結婚し、
奥さんの実家の仕事を継いで教職を辞めたらしい。

まあ、考えてみると何とも不思議で、少し気味悪くもあり、
またわしもぼけたのかとも思うし、でもあんまりにも、
話がリアル過ぎて、確かに和夫であったし、わしは出かけたのだ。
一人では少し心許(もと)なく、家内もわしと一緒に行ったのだよ。

「それで和夫さんは来られたのですか」「いや来なかった」

15日7時に予約を入れ、席を取って出かけたらしい。
「30分前に店に着き、予約の座敷に入って待ったんだ」

半信半疑だったが、妙に胸騒ぎもし、
戦死したはずの和夫が何で急に、
今頃電話を掛けてきたのか知りたかったのだ。

わしはもう和夫の顔もよく覚えていないのに、
和夫はわしを分かってくれるかどうかも興味があった。
和夫は果たして昔の面影を残しているのだろうか。

7時が8時になり、8時半になり、店が混んできてわしは
少し居心地が悪くなってきた。
そしてふすまが開き、店の人が若いアベックを連れてきたのだ。

「すいませんが、少し同席を願えますでしょうか?」
「あぁ、いいですよ」わしは少し戸惑いながらうつら返事をしたんだ。
ひょっとしたら、やはり錯覚だったのかとも思うし、
何かの都合で来れなくなったのかなとも思った。

わしの席には4人分の料理とビール、酒が並んでいる。
わしは飲まないし、家内も飲めないから手持ち無沙汰だったんだ。

わしはえい、ついでだとその若いアベックに酒を勧めたんだよ。料理も勧めた。
その若いアベックは屈託(くったく)なく飲んで食べてくれた。
わしはビールを追加した。

1時間も過ごしていただろうか。
「どうもご馳走様でした。大変お世話になって」
「え、何々(なになに)、もっとゆっくりしたらいいのに」
「いえいえもう大変ご馳走になって」
急に若いアベックはいそいそと帰り支度を始めたんだよ。
そしてあっという間に席を立っていった。

わしと家内は少し唖然としながらも、
久しぶりに若い人と楽しいひと時を持て、うれしかった。
そしてわしらも席を立ち、店の入り口でお愛想(あいそ)をし、
家に帰ったんだが、玄関の戸を引きながらの
背後の声が気になってな。

「何ですかそれは?」
それはわしが引き戸を引き、外へ半身(はんみ)乗り出したとき、
確かに店員が言っていたんだが、
「不思議な客だな、これで二組目だ。今日(きょう)は」
「料理に少しも手をつけず、誰かを待ってそのまま帰るんだからな」

その声を全部まで聞かず、わしは外へ出たんだが、
それじゃあの若いアベックは誰なんだ?と思ってな。
今も受話器の感覚が妙に残り、
確かに和夫からの電話だったと思えるのだが・・。

奥さんに怪訝(けげん)がられても困るので、
1人自分の胸に収めているという。
「なあ、これから行ってみないか?」

どうです、何とも少しばかり興味をそそる話でしょう?
「どこですか?」私は聞いた。「君とも行ったことのあるあそこだよ」

その店は富山県庁近くにある老舗(しにせ)で、
もう随分遠い記憶になるが、天井が高く、
夏は店内に打ち水がしてあり、大きく開放的で、
値段はそんなに高くないが、そことなく品位を漂わせて
落ち着きのある店だった。

お盆の間も休まず営業している。北陸人は働きものだし、
この店ぐらいになると、帰省の人や馴染み客が多く、
結構いつも忙しいのだ。

お盆は実(じつ)に1日、1日がつるべ落としの如(ごと)く、
黄昏(たそがれ)が早い。
久し振りのお店は、しっとりと冷房が店内に行き届き、
客席は皆、小さな座敷になっていて、程よい客が礼儀正しく、
富山の魚介類を楽しんでいる。

伝統とか老舗とかの、重い押し付けなく、自然の品位が
溢(あふ)れているのは素晴らしい。
私らの席に刺身の盛り合わせが来た。
まことに端麗(たんれい)としか言いようがない。

富山の刺身は美味しいのですぞ。北アルプスからの雪解け水が、
富山湾の海を独特のものにしているという。私と老人はビールを
一口ずつ呑み、刺身を口にしてうなずいた。

「ちょっと」と、私が横を通った店員に声をかけた。
まだ時間が早かったからだろう。
店員は面倒くさがらず誰かを呼びに行った。
「去年のお盆ですね。ええ覚えていますよ」。
去年のことを知っている店員が来た。

「ええ、もう1人は護国神社から来たと言っていましたね」
前年のお盆15日は、老人のほかにもう1人予約客が居たそうだが、
老人と同じく手をつけず帰ったという。

「じゃあ、あの時私の席に来たアベックはどうしたのかな」
老人が聞いた。
「いえ、あの日は混(こ)んではきましたが、相席などは頼みませんよ。
それにアベックは来ていませんし、料理は何一つ手をつけていなかったです」

故に記憶が鮮明なのだという。
やはり老人の錯覚(さっかく)なのだろうか。
「昔、やはり護国神社から来たという人が居たそうで、
同じことがあったと言っていましたよ」
店員はさほど不思議でもなさそうに、この時期にはたまにあるという。

護国神社は全国各地にあり、太平洋戦争で死んだ英霊を祭る神社である。
お盆だから、終戦記念日だから、とでもいうのだろうか。

老人は少し気落ちし、それでも少し何か意図(いと)する所があるようで
「明日、昼からもう一度来てくれないかな」と私に言った。

16日には帰る予定にしていたが、帰る前に寄(よ)ると、
一寸と私を外に誘い出し、老人の家から近い
護国神社へ歩いて行った。

神社は神通川の辺(ほとり)にひっそりと、
大きな鳥居(とりい)を構えて鎮(しず)まっていた。
「わしは時々、昔の戦友や兄弟の冥福(めいふく)を祈りに
寄っているんだよ」

護国神社の建物の中へ入るのは初めてだった。
掃除が行き届いてピリッとした空気が張り詰めている。

館内は私ら二人だけだった。
厳(おごそ)かな雰囲気の中、部屋を回る。
二つ目の部屋に特攻隊の遺品(いひん)やら手紙が飾られていた。
特攻隊も全国各地から集められているのにびっくりした。
写真の何点かもあった。そして一角で老人はうめいたのである。
「和夫、お前だったのか」

老人はガラスケースの中の手紙を
貪(むさぼ)るようにして読んでいた。
私は古びたセピアの写真に、
和夫さんでも写っていたのかと思ったのだが、
老人を引き止めたのは、一部がボロボロになった
手紙類の断片だった。

その手紙は、学徒兵が出陣する前に送ったものらしいが
戦況が厳しく、混乱の中で行き先も見当たらず、
この度初公開と記されている。
どうか遺族の方の目に触れるようにと但し書きがあった。

老人の目に見る見る内に涙が溢(あふ)れ、
嗚咽(おえつ)が洩れた。
私は老人も年のせいかなと思い、ちらと手紙に目をやった。
目の端に時空を越えての無念と困窮(こんきゅう)が覗かれた。
千切れ・・、千切れの部分もあり、
執念の思いがしみの汚れとなって、へばりついている。

そして文の最後に微(かす)かに、
薄汚れ色褪(あ)せた文字が読めたのである。
その文字は滲みにその正体を曖昧にしながら、
私にもはっきり和夫と読めた。

その瞬間、私は身震いをして飛び上がらんばかりになった。
護国神社のその部屋の屋根がというより、天井から壁から
凄い音が鳴り出したのである。
バリバリ・・、バリバリ・、パーン・・、バシーンと音が炸裂し、
只ならぬ状態になりだした。

魂や霊が喜んでいる。幾星霜(いくせいそう)の困難を耐え忍び、
やっと富山の地に辿り着いた和夫さんが、
兄貴と対面して喜んでいることがはっきりと分かった。
このような形で手紙がこの地に来ること、
兄の目に触れるということがあるのだろうか。

老人は泣き伏し、私は呆然と佇(たたず)むのみであった。
暫(しばら)く音が鳴り響き、
再び静寂(せいじゃく)が取り戻された時、
老人は床に手を着き、肩を落とし首をうなだれ泣いていた。

「いつまでも生きていても仕方がないわ」
「友達も沢山死んだし、兄弟も死んだし、
人生はおみくじみたいなもんやな」

やり手の人でもあったはずなのに、
時々のこんなセリフが蘇(よみがえ)った。
人生の終着は中々色々な問題が内蔵されていて難しいものだ。
「あたわりもんだよ人生は。決まっているんだよ。
金ばっかりでもないし」

ポーズでもなく、強がりでもなく、私は戦争体験者の深い
心の傷をこの時始めて知った。
そして今も尚、深く傷つき、さ迷っている心や魂、
感情の起伏があることも。

和夫さんは15歳で生死が分からなくなったそうである。
どこで死んだかも分からない。
遠く鹿児島の知覧(ちらん)という特攻隊の基地だった写真が、
のどかに青い空と白い雲の下、
お茶畑の緑を写してきれいである。

今はお茶の産地として有名なのだそうである。道の両側に
灯篭並木がずっと続き、
古(いにしえ)の古戦場が何も語らないように、知覧にも野の
風だけが行き渡るようであった。
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伏見谷 徳磨

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